
父の通夜は自宅で行なった。定番の居場所だった広縁で、焼酎のお湯割りをやるのが父の至福の時間であった
今年の夏のあとさきは、私の人生の大きな節目となった。
8月22日、89歳で叔母が亡くなり、その僅か41日後の10月2日、父が眠るように94歳の大往生を遂げた。

線香は切らしても、好きな酒は絶やすべからず…

戦前の黒麹菌を使って復刻したという泡盛、瑞泉酒造の御酒(うさき)もお気に入りのひとつであった
叔母の父、つまり私の母方の爺様は、新宮の速玉神社の近くで銀行に勤めながら、受け継いだ旅館の経営にも携わっていたが、昭和9年に47歳の若さで亡くなっている。叔母の兄は昭和19年にビルマで戦死し、過酷な時代を叔母は愚痴一つこぼさず生きてきた。
戦死した叔父の戦友が串本の出で、戦後、叔父が戦死した際の状況を報告するために新宮を訪ね、その後、同郷同期の親友を紹介する流れで私の父母は結婚することとなった。
人生には数奇な出会いが満ち満ちている。
叔母は母を、つまり昭和57年に85歳で亡くなった私の婆様を看取った時は、丁度今の私と同じ歳であった。叔母は生涯独り身であったが、人生を達観したように見えていながらも、遺品の中に見つけた日記には晩年の寂莫感が綴られていた。
伴侶も、当然ながら子供もいなかった叔母にとっては、出来の悪い甥っ子である私も可愛い存在であったのかもしれない。
叔母は姉、つまり私の母と共に、私の無鉄砲な出版活動に理解を示してくれた数少ないサポーターであった。編集プロダクションとして、請負で料理本や語学本等を出しているときはコンスタントに稼ぎながらも、カジキ釣りという極めてニッチなマーケットの、それこそ無鉄砲な出版活動に入れ込んでは赤字を垂れ流すという、懲りないライフワークを続けている極道息子を、嘆きながらも励ます姉の陰で、叔母がそっと銀行に足を運んでくれたことも度々あった。
この4月に軸足を串本に移したことは、そんな叔母たちへの最後の、どん詰まりでの浅はかな恩返しであった。実際、これまで介護帰省と称して繁く通っていたつもりではあったが、月に1度や2度の帰省では出来ることも限られ、それこそ上っ面を取り繕うようなことしかできていなかった。いわば自己満足だけのための介護帰省でもあった。
こちらに来て僅か半年ほどではあるが、大切な人の“傍にいる”ということだけで満たされる時間があるということを改めて実感した。
そして最後の、死に行く時間と空間を共にすることはかけがえのない恵みであることを実感した。
父は、私の仕事に対しては内心苦々しく思っていたかもしれないが、帰省すればいつも満面の笑顔で「おう、帰ってきたんか!」と迎えてくれた。慌ただしく上京する際は「おう、もう帰るんか…」と少しばかり寂しげな表情を見せたものだが、自身の、人生の時間がもうあと僅かばかりになってきたときに、息子の背中を見送る時の心境はいかばかりのものであったか、今にしてその心の在り様を考えている。
父は大正7年の10月に生まれ、時代のさまざまな苦労も味わいつくした生涯であったが、晩年の穏やかな笑顔の日々は大きな喜びと平安を与えてくれた。決して多くを語ることのない父ではあったが、今は言葉にされなかった父の想いに心を馳せている。


葬儀は串本、無量寺の本堂で行なった。「枕経だけ、花は一輪でよし」という父の想いを実現してくれた長沢芦雪の『龍虎図』に囲まれた本堂の間。無量寺には丸山応挙や伊藤若冲、狩野山雪、狩野深幽らの名品もある。

これが串本の無量寺
あの日、10月2日の夜は、それまで微かに聞こえていた祭りの準備の、練習の笛の音が途絶え、虫の音が耳に染み入る清澄な秋の気配の夜であった。冴え冴えと月が明るかった。
串本に軸足を移した4月以来、看取り介護を続けていた叔母が先の8月22日に亡くなったことは先に述べたが、叔母の葬儀が一段落した頃から今度は父が補陀落渡海の準備を始め、水も食事も体が受け付けなくなってきた。自身の体を溶かしながら死に至る3週間ほどは、老木が朽ちて枯れ行くような、平穏に天寿を全うする過程が如何に自然な流れであるかを実感させてくれるものであった。
この夏のあとさきに、私はふたりの死と向き合う実に充実した時間を過ごすことができたことに深く感謝している。
こちら串本は、祭りの時期は仏事を控えることがならいで、5日に通夜を済ませたものの葬儀は11日となった。結果、親父との別れは9日間のロングランとなったが、生前、親父がよく座っていた縁側で、同じく好きであった焼酎をちびりちびりとやりながら父に想いを馳せることができたのは、悲しくも満ち足りた至福の時であった。
春以来、まずはじっくりとふたりを看取れたことが、今の安らぎかなと思う。
ただ、この夏のあとさき、僅か41日間で妹と亭主がいなくなったお袋が、今はテレビを見ながら笑いこけている…。明るい介護、これがまた厄介でして…(笑)。

そんなわけで『BIGGAME』#030は、制作が大幅に遅れてしまいました。これも100号までの一里塚と勝手に考えていますが、度々お電話を頂戴致しました読者の皆様方には改めて発行遅延をお詫び申し上げます。